教育について

■教育にのみ望みがあるT

乳幼児を見ながら考えたこと

 16年9月、蓼科ロータリークラブで25分ほどお話をするように依頼され、話がそれないために原稿を作りました。何とか30分以内にはおさまりましたが、やはり別なこともお話ししてしまいました。どこの馬の骨かにも興味があったのでしょうか、略歴も触れるように言われましたので、お話しするはめになりました(気が進まなかったのですが)。いずれにしろ、自分を振り返る機会となりました。

 

略 歴

 平成2年に望月に参りまして今年で16年目になります。小諸市の山浦に生まれ育ち、野沢北高校を卒業後東京に出まして、働きながら駒澤大学の仏教学部を卒業しました。その後聖書と神学を勉強したくて神学校へ3年間行きました。

 卒業後は三鷹市内の教会で6年ほど牧師をしていました。その教会から異動することになったのですが、調整がうまくいかず、休職し、駒澤大学の大学院に戻り、修士課程で学びました。修了後、インドに留学する予定でしたが、次男が発達障害を抱えていることが分かり、留学は中止せざるを得なくなり、結局また博士後期課程で学ぶことになりました。

 赴任する教会がなかなかなかったので牧師は辞めて、日本語教師をしながら翻訳と研究を続けて暮らそうかと見通しを立てて歩み出そうとしたのですが、属しておりましたキリスト教団から、牧師と幼稚園をやれる夫婦を必要としている教会があるがどうかと打診され、こちら望月に来てお世話になることになりました。平成2年4月より、望月教会牧師、学校法人信望学園白鳩幼稚園の理事長として現在に至っております。

  園長をしております家内は、今までに3ヶ月だけ幼児教育の現場を離れましたが、幼稚園と保育園でズーと働いて参りました。私の方は塾の教師から日本語学校の教師、その他色々やってきました。

 

望月が大好きです

 望月で生まれ育ったわけではないのですが、本籍を望月に移しました。望月に骨を埋めようと思っています。何故そういう思いになったかというと、それは自然のすばらしさと人々の優しさを感じたからです。私の3番目の子どもは発達障害を抱えておりますが、望月に来た時、彼は小学校4年生でした。学校の子どもたちも地域の方々も、障害を抱えた我が子を受け入れて下さいました。いじめの対象になっても少しも不思議ではないようのこでしたが、小学校・中学校を通じて一度も「学校へ行くのは嫌だ」と言ったことがありませんでした。

 言うことを聴かない時に、「学校へ行かせないぞ」と言うと、それが脅しになる位でした。「学校が大好きだ」といわせるものが学校にあったのです。望月の子どもたちは本来優しい子どもたちなのだ、望月はそういう子どもたちを育てているのだ、と心底思いました。

 その当時から、私の残りの人生は、息子が楽しい学校生活を送ることができた望月への恩返しだ、と思っております。

 

心理学が分からない

 学部の学生の頃、『甘えの構造』という本がどこの本屋さんにも横積みにされていました。1〜2ページ読むのが精一杯で、難しくてとても読めませんでした。基礎となる心理学の知識が全くなかったからです。そこで何回も色々な心理学の入門書を読みかけたのですが、数ページ読むだけでどうにも歯が立ちませんでした。

 心理学というのは自然科学ですので、どうも肌に合わなかったようです。とにかく言葉の使い方が違うのです。学習という言葉を心理学では「体験による行動の変容」などとするのですが、もうこれに引っかかって、一歩も先に進めませんでした。心理学が分かり、『甘えの構造』が楽しんで読めるようであったら、博士課程での研究方法も違っていただろうと思います。

 望月に来て、2年目に言葉に遅れを持つ二人の子どもに出会うまで、私にとって心理学は刑務所の壁のように30年以上聳え立ち続けておりました。

 

子どもから学ぶ

 この二人の子どもの発達状況が全く分からす、どういう具体的な援助をしたらよいか分からない、担任や他の教師達にもどういう指示を与えたらよいか分からないお手上げの状態でした。とにかく発達の一つの側面を客観的に知るには心理検査法を勉強するしかない、その為にはあの刑務所の壁のように立ちはだかる心理学の入門書を分かっても分からなくてもとにかく何か一冊読み通そうと決意し、読み始めました。

 不思議なことに読み終えることができました。何回も繰り返し読み、後は手当たり次第読み、心理検査法の本は勿論、埃をかぶっていた700ページを超えるアメリカの大学生読む心理学の教科書も読みました。そんな時間があるなら、子どもにつき合え、子どもと遊べと、園長からは言われました。

  途中で気がつきました。30年以上も立ちはだかっていた壁は、この二人の子どもとの出会いがあって乗り越えられたのだ、子どもに教えられるということ、子どもから学ぶということはこういうことなのだ、と。

 

『教える』と『学ぶ』

 日本語の教えるという言葉と学ぶという言葉、それに相当する英語のteachingとlearningという言葉もそれぞれ全く別な言葉ですが、旧約聖書の原語であるヘブライ語ではまず学ぶという言葉があって、この学ぶという言葉から派生してできている言葉が教えるという言葉なのです。つまり、学ぶということと教えるということは別なことではなく一つのことであるということです。教育について考える場合、とてもおもしろいことだなと思います。知識として知ってはいましたが、このおもしろさに気付いたのは、子どもから学ぶということがあってからでした。

  教師にとっても、親にとっても、大人にとっても、教えることは学ぶことであり、学ぶことがあって教えることが可能になるんだということは、しっかりと心に留めておくべきことではないでしょうか。生涯学習という言葉が頻繁と聞かれるようになりましたが、これは生涯つまり生まれてから死ぬまで学ぶのが人間なのだということになるのではないかと思えるのですが、どうでしょうか。

 

次回へ続く

理事長:小林一正

 

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