ある学校でのことです。先生が生徒に聞きました、「マリヤさんの夫のヨセフさんの職業は何ですか?」大工さんだと答えられた生徒は一人だけだったそうです。
この学校というのは、小学校でも中学校でもありません。県内の高校でのことなのです。この話をどのように受け止めたらよいのでしょうか。その高校のレベルが低いというような問題では毛頭ありません。今の子ども達が幼少期に、どのような文化の中に生まれ・育ってきたか、その一つの結果が現れているのでではないでしょうか。
おもちゃ屋さんの折り込み広告をよく目にします。そのおもちゃたるやテレビアニメのキャラクターばかり。乳幼児の時からこういうおもちゃで遊びながら育つのかと思うと悲しくなります。この手のおもちゃが子どもの創造性や想像力を刺激するとはとても思えないからです。そして思うのです。「一体どんな本をどれ位読んで育ったのだろうか?どれ位テレビを見て成長したのだろうか?」と。
私達大人も抽象的なことを嫌う傾向があります。具体的で即物的であることを好みます。勉強も抽象的なものは嫌われます。数学や哲学の好きな人は変人扱いされかねません。すぐには、直接には役立ちませんから。数学等は最も良い例ですが、実は抽象的なものほど応用範囲が広いのです。即物的なアニメおもちゃから一体どんなイメージが生まれくるのでしょうか。ヨセフが大工であることを知らないことに象徴される子どもの生育環境の現状に心が痛まざるを得ないのです。
ヨーロッパ文明の根底に流れるキリスト教文化を知らなさすぎる、クリスマスがキリスト教と無関係に日本文化の中に取り入れられ利用されている、と嘆いているのではありません。今の子ども達が、かちかち山や浦島太郎等々の世界、ギリシャ神話や聖書物語に触れずに育つ文化状況に憂いを感ぜざるを得ないのです。
教養や文化のことを英語でカルチャーと言いますが、そこには耕すという意味があると辞書には説明されています。心を耕す、精神を耕す、魂を耕す、それがカルチャーのはずです。心も魂も耕してこそ豊かになるのではないでしょうか。
この「耕す」ということは主イエスの多くの譬え話の前提になっています。耕されない田や畑はあっという間にみごとに荒れてしまいます。耕し続けてこそ田や畑であるのです。私たち人間の心や知性も同様です。
ちょっと手抜きをすると雑草が生えます。雑草とは何でしょうか?
理事長:小林一正 |